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Posted by チェスト at

2008年10月17日

「死出の旅路」に「カルト」ではなく、「ロマン」を・・・

 ☆PACOさんから、先程、兄弟ブログ「ポティカ」の方に下記の「コメント」を頂きました。

 <「死出のはなむけ」か? 言葉の異常な使い方がカルトチック。自衛隊に入隊したら最後ってことか。オウム真理教に入信した信者と運命は同じ。>

 ★上記のコメントを頂戴しましたが、「死出の旅路のはなむけ」は、井原西鶴の「好色五人女」の一節のようです。筆者も多忙で、原典までは見れていませんが、下記のネットからの資料をご覧下さい。

 <八百屋お七
   死出の旅路のはなむけの花にと咲き遅れの桜を一枝手渡すと、・・・

   ・世の哀れ 春吹く風に 名を残し おくれ桜の 今日散りし身は >

 ☆また、「Wikipedia」の「八百屋お七」の項に、以下の記述があります。

 <この人物は幼い恋慕の挙げ句に放火未遂事件を起こし、それが後に浄瑠璃等芝居の題材となったことで有名である。

 生年は1666年で生まれとする説があり、それが丙午の迷信を広げる事となった。下総国千葉郡萱田(現・千葉県八千代市)で生まれ、後に江戸の八百屋太兵衛の養女となった。

 お七は1682年(天和2年)12月の大火(天和の大火)で檀那寺(駒込の円乗寺、正仙寺とする説もある)に避難した際、そこの寺小姓生田庄之助(左兵衛とする説も)と恋仲となった。翌1683年(天和3年)、彼女は恋慕の余り、その寺小姓との再会を願って放火未遂を起した罪で、捕らえられて鈴ヶ森刑場で火刑に処された。遺体は、お七の実母が哀れに思い、故郷の長妙寺に埋葬したといわれ、過去帳にも簡単な記載があるという。

 その時彼女はまだ16歳(当時は数え年が使われており、現代で通常使われている満年齢だと14歳)になったばかりであったため奉行甲斐庄正親が哀れみ、お七は15歳だろうと聞いた(15歳以下の者は罪一等を減じられて死刑にはならない)が、彼女は正直に16歳であると主張し、お宮参りの記録を証拠として提出した程だったという。

[編集] 文学その他
 お七処刑から3年後の1686年(貞享3年)、井原西鶴がこの事件を『好色五人女』の巻四に取り上げて以降有名となり、・・・・・>

 ★「はなむけ(餞)」の語義は、餞別の意で、金品・言葉などであるようです。上記の歌は、おそらく処刑されたお七の死を悼んで誰かが贈った歌に擬せられているモノと推測されます。分かりやすく言えば、「死出の旅路のはなむけ」とは、その人の死を惜しんで贈る「惜別の辞」と言えそうです。

 ★今回の三曹の死を海自の誰が予想しまた惜しんだかは分かりませんが、結果的に今回の海自の「格闘訓練」が、言葉の厳密な意味で、「死出の旅路のはなむけ」になったことだけは確かなようですね。

 ★PACOさん、如何でしょうか?これで、実はカルトではなく、江戸前期のロマンの香りであったことを幾らか感じ取って頂けましたでしょうか?またご意見下さい、よろしく。  <哲> 


  

Posted by 代表:岩井哲 at 18:00 │Comments(0) │日本の事

2008年10月17日

海自・「格闘訓練」は、”死出の旅路の”「はなむけ」か?

 ☆10月15日の「産経新聞」は以下の記事を伝えました。

 <格闘訓練は「はなむけ」 海自隊員死亡、教官も許可

 広島県江田島市の海上自衛隊第1術科学校で9月、特殊部隊「特別警備隊」の養成課程にいた男性3等海曹(25)=愛媛県出身=が1人で隊員15人を相手にした格闘訓練中に頭を強打し、約2週間後に死亡した問題で、訓練は3曹の同僚隊員が送別名目で教官に許可を得て行っていたことが14日、分かった。3曹は2日後に養成課程を外れる予定で、同僚が送別の恒例行事として逸脱した訓練を行った疑いが強い。徒手格闘訓練は1対1で行われることが多く、1人が15人を相手にするのは異例。1人が多数を相手にする訓練は、今年の養成課程独特の行事だったという。

 訓練に参加した隊員は海自の内部調査に、養成課程を外れる3曹への「はなむけ」として1対15の訓練を行うことを教官に申し出たと証言。「集団暴行ではない」と説明している。浜田靖一防衛相は14日の閣議後会見で「特殊という気がしないでもない」と述べ、訓練の範囲を逸脱しているとの認識を示した。また、赤星慶治海幕長は同日の定例会見で、3曹が異動する2日前に格闘訓練が行われたことについて「こういうことをやるのがいいのか、内容が適切なのか、調査してから判断したい」と述べるにとどまった。>

 ★この数日、海自における「格闘訓練」の結果の隊員の死亡が報じられている。どのような防具を着けての訓練だったのかなどの詳報が伝えられていないが、少なくとも一人50秒の対戦を15人連続行ったという。これは、プロ(級)の格闘家が行ったとしても極めて困難な「訓練」だったのではないか?私は(自身空手を多少嗜み、昔、組手の経験も少なからずある者だが)、大分前に、極真空手の鍛え抜かれた選りすぐりの精鋭数人が行った100人組み手・50人組み手をビデオで見たことがある(これは、グローブを着けない代わりに、頭部を手で殴らないー足は可ーというルールであった)が、これと比べても、特殊部隊の隊員とはいえ、格闘技専門の訓練を重ねたごく少数の人々に比べれば、技・耐久力の面でもそれを凌ぐとは考えにくい。謂わば素人に近い青年が、「14人目のパンチをアゴに受けて倒れた」(この報道で、ヘッドギアも着けていなかったことが窺われる)というが、実に悲惨な状況であったことが察せられる。

 ★亡くなった三曹とその御家族には気の毒だが、「はなむけ」は「はなむけ」でも、離隊の「はなむけ」ではなく、これは”死出の旅路の”「はなむけ」だったとしか解しようがない。

 ★1対1の対戦で双方がほぼ均等に疲弊するケースと違い、1人が次から次に新たな相手と対戦するというのは、プレッシャーが加重されていくので、困難度が段違いで、通常では1対1、空手の指導員クラスでも、多くても3~5人くらい迄が限度ではないかと思われる。記事も「1人が15人を相手にするのは異例」と伝えるように、それは、初めから「訓練」の域を超えていたと考えざるを得ないのではないか。ここに窺われるのは、隊を辞めて行く者への制裁の「集団リンチ」の疑いである。これを教官が認めていたということは、組織ぐるみの犯罪であると疑わせるに充分である。ここまで見ていくと、海幕長の「こういうことをやるのがいいのか、内容が適切なのか」という発言が、如何に空々しいか、無責任であるのかがよく分かる。

 ☆10月17日の「南日本新聞」は、以下の記事を伝えました。

 <防衛省は、16日、浜田靖一防衛相、増田好平事務次官の双方とも、事件が12日に報道されるまで、三曹一人が15人を相手にした「格闘訓練」の詳細について、報告を受けていなかったことを明らかにした。・・・防衛省では、イージス艦あたごの衝突事故でも、大臣への第一報が遅れたり、事故への対応をめぐる記者会見の説明が二転三転するなど、省内の情報伝達の悪さが問題になり、増田次官らが減給処分を受けている。>

 ★更に、上の記事によれば、防衛省内部における情報伝達が、これまたいい加減で、「隠蔽体質」が見え見えではないか。人の命が奪われてもまだ、「いいのか悪いのか」などとほざいていられる神経はどうかしている。このような人々に、果たして「国民の命を守る」という大事を任せることが出来るのだろうか?イージス艦事故もそうだったが、「人命軽視」「責任回避」の姿勢が露骨な人々に国の安全を任せるなど危なくて出来はしない。石波元防衛相など、ああだこうだと言いながら、結局何の責任も取らず逃げ切ったことは記憶に新しい。

 ★約20万人の隊員中、毎年100人以上が自殺するということが、暫く前に報じられたが、この自殺者の割合は、飛び切り異常ではないか?(筆者も多忙でまだ調べ切れていないが)こんな組織が、日本中探して他にあるだろうか?「国民の命を守る」はずの人々が、こんなにも多く自ら命を絶っている!そこにはどんな深い闇が横たわっているのか?ここに見られるのは、少なくとも「人命軽視」、「秘密主義」、「隠蔽体質」などなどである。

 ★25歳の隊員の無惨な死をムダにせず、自衛隊の深い闇をとことん抉って、「国民を守る」に相応しい組織に造り替えて行かなければならない。ここに注がれている数兆円の税金は、まさに国民の「血税」でもあるのだから。 <哲>
  

Posted by 代表:岩井哲 at 06:32 │Comments(0) │日本の事