2008年08月02日
これで「夏の甲子園」が楽しめるのか?桐生第一お咎め無し!
☆8月1日の「産経ニュース」は、以下の記事を伝えました。
桐生一の甲子園出場認める 高野連の全国理事会
<日本高校野球連盟は1日、大阪市内で全国理事会を開き、野球部員が強制わいせつ容疑で逮捕された群馬・桐生第一高校の第90回全国高校野球選手権大会(二日開幕)への出場を認めることを決めた。
会議では逮捕されたのは部員1人で、部活動とは直接関係のない時間帯、場所で行われており、同校の高橋昇校長からは「他の部員の事件への関与はなかった」との電話連絡が1日にあったことなどが報告された。これを受けて日本高野連は、部員の個人的な非行の場合、連帯責任を問わない近年の方針に沿い、同校の出場を認めた。
高橋校長は記者会見で、辞退しない理由として、部員が県予選に出場しておらず、甲子園出場メンバーに入っていないと強調。>
★どういう結末になるか、この間注目していたが、何と高野連は、結局「出場を認める」形となった。その理由は、「逮捕されたのは部員1人」「部活動とは直接関係のない時間帯、場所での犯行」「甲子園メンバーに入っていない」等であるが、開いた口がふさがらない。
★犯人が複数ではなく1人なら何故いいのか、部活動の場における犯行でないから構わないとは一体どういう事か、レギュラーでなく補欠だったから出場が許されるというのは一体どういう理屈か?
★加えて、犯罪の質は問題ではないのか?従来の話は、せいぜい「喫煙」「飲酒」「体罰」「部内暴力」の話であった。これまでが「喫煙」や「飲酒」などの”形式犯”であり、また「暴力」であっても「部内」の問題に過ぎなかったのに対し、今回の犯行は、明らかに「部外者」に対する、”形式犯”ではなく「性犯罪」というれっきとした「刑法犯」であるということが、今回の件の擁護の理由に挙げられるこの間の多くの事例とは決定的に違うのではないか?
★「性犯罪」に打ちひしがれる「被害者」の女性が紛れもなくそこに存在しているのに、そのことを素通りして、通り一遍の「謝罪したい」の言葉だけで、高橋校長は、何故、「出場させて欲しい」という願望だけを先行させることが出来たのか?そこに於ける、桐生第一高校の教育的判断とは一体何だったのか?
★「レギュラー優先」(犯人の生徒に対し校長は「レギュラー選手ではなく、気のゆるみがあったのではないか」と石を投げつけてもいる!)「甲子園出場至上主義」(校長は「他の部員にまで責任を負わせるのは忍びがたい」と述べ、甲子園出場を辞退しない考えをあくまで強調)などの、あからさまな「成果至上主義」が教育本来の”努力のプロセスを重んじる”健全な教育観を著しく歪めてしまっているのではないか?7/22の生徒死亡事件も含め、同校の教育観・体制に根本的問題はないのか?
☆7月31日の「産経ニュース」は、以下の記事を伝えました。
<一方、同校を応援してきた地元からは「残念だが出場辞退もやむを得ない」と厳しい意見が相次いだ。地元の商店街で文房具店を営む河内秀夫さん(55)は「補欠とはいえ、野球部員がこんなことをしたら、厳しい判断が出ても仕方ない。桐生一は全国制覇もしているのに、とても残念だ」と話した。>
★上記の地元のごく普通の商店主の見方が、最も当を得ているのではないか。先にも東京で、都の人事委員会が、教育委員会の判断を覆して、高校の副校長のセクハラを「お触りは10秒間だけだったから」という世にも信じがたい理由で、罪一等を減じる決定を下したことが報道されたが高野連も、都の人事委員会も、余りにも「社会的規範意識」が緩みすぎてはいないか?率先してそれを引き締めるべき機関が、次々に逆の決定を下していく。ここには、「教育」やひいては「社会そのもの」の”崩壊の足音”が聞こえはしないか?
☆8月2日の「産経新聞」は、以下の記事を伝えました。
<桐生一も行進 鈴木主将「感謝の気持ちでいっぱい」
部員による強制わいせつ事件で出場が危ぶまれた桐生一(群馬)。前日に大会出場が正式に決まり、この日行われた開会式では入場行進で甲子園のグラウンドを踏みしめ、スタンドから拍手が送られていた。
鈴木佑太主将は「入場行進できたことは大変うれしい。今はとにかく感謝の気持ちでいっぱいです」とホッとした表情。「試合でしっかりと結果を残せるようにしたい」と気を引き締めていた。>
★あくどい性犯罪者を同じ部から出した野球部の主将が、「今は感謝の気持ちでいっぱいです」と語るのを聞くとき、寒々とした思いに囚われる。今回の高野連の決定が「教育百年の大計」「国家百年の大計」を誤る第一歩を踏み出したのではないかと深く憂慮するものである。これで、少なくとも、私個人は、「今夏の甲子園大会」を余念を排して楽しむことは到底出来なくなった。皆さんはどうであろうか?これが、更に今後にも長く尾を引くことにならなければ幸いである。最後に、当該の「被害者少女」に心からのお見舞いの言葉を申し述べ、この稿を終わりたい。 <哲>
桐生一の甲子園出場認める 高野連の全国理事会
<日本高校野球連盟は1日、大阪市内で全国理事会を開き、野球部員が強制わいせつ容疑で逮捕された群馬・桐生第一高校の第90回全国高校野球選手権大会(二日開幕)への出場を認めることを決めた。
会議では逮捕されたのは部員1人で、部活動とは直接関係のない時間帯、場所で行われており、同校の高橋昇校長からは「他の部員の事件への関与はなかった」との電話連絡が1日にあったことなどが報告された。これを受けて日本高野連は、部員の個人的な非行の場合、連帯責任を問わない近年の方針に沿い、同校の出場を認めた。
高橋校長は記者会見で、辞退しない理由として、部員が県予選に出場しておらず、甲子園出場メンバーに入っていないと強調。>
★どういう結末になるか、この間注目していたが、何と高野連は、結局「出場を認める」形となった。その理由は、「逮捕されたのは部員1人」「部活動とは直接関係のない時間帯、場所での犯行」「甲子園メンバーに入っていない」等であるが、開いた口がふさがらない。
★犯人が複数ではなく1人なら何故いいのか、部活動の場における犯行でないから構わないとは一体どういう事か、レギュラーでなく補欠だったから出場が許されるというのは一体どういう理屈か?
★加えて、犯罪の質は問題ではないのか?従来の話は、せいぜい「喫煙」「飲酒」「体罰」「部内暴力」の話であった。これまでが「喫煙」や「飲酒」などの”形式犯”であり、また「暴力」であっても「部内」の問題に過ぎなかったのに対し、今回の犯行は、明らかに「部外者」に対する、”形式犯”ではなく「性犯罪」というれっきとした「刑法犯」であるということが、今回の件の擁護の理由に挙げられるこの間の多くの事例とは決定的に違うのではないか?
★「性犯罪」に打ちひしがれる「被害者」の女性が紛れもなくそこに存在しているのに、そのことを素通りして、通り一遍の「謝罪したい」の言葉だけで、高橋校長は、何故、「出場させて欲しい」という願望だけを先行させることが出来たのか?そこに於ける、桐生第一高校の教育的判断とは一体何だったのか?
★「レギュラー優先」(犯人の生徒に対し校長は「レギュラー選手ではなく、気のゆるみがあったのではないか」と石を投げつけてもいる!)「甲子園出場至上主義」(校長は「他の部員にまで責任を負わせるのは忍びがたい」と述べ、甲子園出場を辞退しない考えをあくまで強調)などの、あからさまな「成果至上主義」が教育本来の”努力のプロセスを重んじる”健全な教育観を著しく歪めてしまっているのではないか?7/22の生徒死亡事件も含め、同校の教育観・体制に根本的問題はないのか?
☆7月31日の「産経ニュース」は、以下の記事を伝えました。
<一方、同校を応援してきた地元からは「残念だが出場辞退もやむを得ない」と厳しい意見が相次いだ。地元の商店街で文房具店を営む河内秀夫さん(55)は「補欠とはいえ、野球部員がこんなことをしたら、厳しい判断が出ても仕方ない。桐生一は全国制覇もしているのに、とても残念だ」と話した。>
★上記の地元のごく普通の商店主の見方が、最も当を得ているのではないか。先にも東京で、都の人事委員会が、教育委員会の判断を覆して、高校の副校長のセクハラを「お触りは10秒間だけだったから」という世にも信じがたい理由で、罪一等を減じる決定を下したことが報道されたが高野連も、都の人事委員会も、余りにも「社会的規範意識」が緩みすぎてはいないか?率先してそれを引き締めるべき機関が、次々に逆の決定を下していく。ここには、「教育」やひいては「社会そのもの」の”崩壊の足音”が聞こえはしないか?
☆8月2日の「産経新聞」は、以下の記事を伝えました。
<桐生一も行進 鈴木主将「感謝の気持ちでいっぱい」
部員による強制わいせつ事件で出場が危ぶまれた桐生一(群馬)。前日に大会出場が正式に決まり、この日行われた開会式では入場行進で甲子園のグラウンドを踏みしめ、スタンドから拍手が送られていた。
鈴木佑太主将は「入場行進できたことは大変うれしい。今はとにかく感謝の気持ちでいっぱいです」とホッとした表情。「試合でしっかりと結果を残せるようにしたい」と気を引き締めていた。>
★あくどい性犯罪者を同じ部から出した野球部の主将が、「今は感謝の気持ちでいっぱいです」と語るのを聞くとき、寒々とした思いに囚われる。今回の高野連の決定が「教育百年の大計」「国家百年の大計」を誤る第一歩を踏み出したのではないかと深く憂慮するものである。これで、少なくとも、私個人は、「今夏の甲子園大会」を余念を排して楽しむことは到底出来なくなった。皆さんはどうであろうか?これが、更に今後にも長く尾を引くことにならなければ幸いである。最後に、当該の「被害者少女」に心からのお見舞いの言葉を申し述べ、この稿を終わりたい。 <哲>
Comment list
自分(組織も含めて)さえ良ければとか、結果が良ければすべて良しというような、現代の資本経済至上主義の社会の問題点です。ただ、私たちの世論がそういう風潮規範を作ってしまったと思います。 <風>
Posted by 世直し
at 2008年08月03日 06:37

以前(と言っても五年以上前だが)ある地方の青年が猫を殺した写真を2チャンネルで公開した事件がありました。社会的問題となり、その後、本人が特定されたのですが、ほぼ同時に2チャンネルで実家の住所や写真が掲載されてから、両親への嫌がらせが始まりました。犯人の両親が教員であったこと、その事実が広く知られてから、更に嫌がらせが全国へエスカレーションし、私が住む市の公共ネットでも批判が相次ぎ、その両親を弾劾する決議まで出ました。民衆は往々にして愚かであると思います。猫を殺しネットに写真を投稿した人物は選挙権もある成人であり、その行為に対する責任は全て本人にのみ帰するべきでありながら、です。私は薩摩藩士族の末裔の一人であり、十二歳の時に父から切腹の作法を授けられました。いわゆる元服の儀式の一つとして、でした。それ以降は成人として、何か不名誉なことを行った場合、自害しなければならない事も意味していました。人は法によって成人なり、又は未成年と区別されるけれど、出自なり血統は年齢を超越し得るものです。皇族には皇族の、士族には士族なりの、です。階級制度は既に消滅しているけれど、その矜持はスピリッツとして残る、心掛けとして。結論が遅くなりましたが、個人の責任を全体連帯責任と考えるのはナンセンスです。未だに江戸時代の法が支配しているのか?そうではないはずです。個があり、その集合の結果こそ衆であり、その逆ではないのです。
Posted by 黒騎士 at 2008年08月09日 22:46
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。